あけましておめでとうございます

ほぼ一年過ぎた。あっというますぎた。
忙しすぎて、考えを整理することもできなった期間でした。
できれば、今後のために言説の訓練としてもここに書いていきたいと思う。

何が成長したのか。

経験?業界を知れたこと?建築ができるまでの流れ、展示、出版の感じ、コンペの感じ、施主とのやりとり、現場の人、一般人、世代の違う人、協力業者、設備、構造、申請、法規、民間、役所、人を動かすこと、焦らせること、焦ること、本質よりその場の印象、時間管理、スピード間、事務所の経営、スタッフの扱い方、こだわり

成長するためには、頭をどれだけ使うかが大事だと思っている。自分で判断する。巨匠の事務所でないなりの経験を活かす。自分独自の意志で動き考え、経験していかないとオリジナリティが弱くなってきてしまう。かといって未熟な状態で判断するのはリスクがあるが、そこをどれだけできるかが大物になれるかなれないかの違いだと思う。

先月は3回くらい家に帰ったかな。今日は10日振りに帰宅。
初の2連休をねじ込んだ。正確には1.5日間の休み。

どうぞ宜しく。

新生活

設計事務所で働き始めて、間もなく一ヶ月。
住宅の仕事は、初回のクライアントへのプレゼンで気に入ってもらえ、実際にこれから進行していくことになりそう。迷惑かけまくってなんとかギリギリで、未完な状態でのプレゼン。スケジュール管理がなってなく、初回だからギリギリ許された感じ。結果としてはクライアントにも恵まれ、事務所としても久しぶりのヒットな感じで、なんとか結果には繋がった。
今は、他物件の見積もりの〆切が迫っている中で、さらに他物件の什器の設計を業者とやりとりしながら行なっています。

週に2日は家に帰って、日曜の午前中は自由時間で相方とデート。
同じ志を持った、同じ方向への熱意を持った人と一緒にいるので毎日きついけど楽しく過ごしています。

「辛いと思ったとき、強くなれると思う。」
「環境は馴染むものではなく、変えるものである。」
あるサッカー選手の言葉より。
今では僕の座右の銘です。

時々更新していこうと思います。どうぞよろしく

なんで水をやるのか

研究室では、基本的には、放ったらかされていて、時々、プロジェクトのパシリ(主に模型制作、言われた通りに図面を描くなど)として使われる程度。施行現場に行ったり、実施図面を描いたりって言うことなんてない。学生を何だと思っているのかなんて聞けないが、ゼミのときは、生徒の意見に耳を傾けてくれる。教育には力を入れている。仕事だからかも知んないけど。
自分の大学で唯一建築設計経験のある教授だからと、メチャクチャ自由って聞いたからこの研究室に入ったのだが、隣の芝が青く見えることもある。都市デザインっていう研究室名だしやはり広域的な話がゼミでは多い。あと基本、ゼミは、頼まないとない。だからあまりない。
教授が2年生の授業の時にTAに言ってた、「学生は中間層をのばすことが大事で、できるやつは放ったらかしてもできる」って言葉を信じたい。KOMATSUさんが言ってた、「出るやつはどこに行っても出る」ってのと同じ。これは、自分は信じる。自分が何となく思っていることが誰かに共感されると、それは信じれる。
どの研究室に所属するかは、人間関係とか研究内容とかで影響力はでかいことは当たり前という提として。とは言っても、自分の時間はかなりある。たとえ、修士設計で、研究室関連のことやったとしても、全然他の分野に手は伸ばせる。だから修士設計は郷に従った。学部4年次までは、仮配属だし好きなことをやるつもりで、卒計も好きなことに取り組んだ。結果、ボコボコにされる訳だが、いろいろ考える機会になって満足している。修士に関しては、郷に従った方が得られるものも多いし、ある種、その研究室にいたことが自分のアイデンティティや武器となっていく。環境には興味があるし、今後の建築の可能性を広げるものでもあるし、郷に従うことにした。だから水(治水)をやっている。
誰もが表面的には知っていることだとは思うが、治水がどれだけ人と密接に関わっているかなんてこの研究室に入らなかったら、感覚として共有できなかったと思う。留学したことないけど、留学して初めて気がつく外国人の習慣じゃないけど、研究室って留学する場所を決めることに似てんのかな。わからんけど


水に関して
流行りだしたのは、3年前くらいか。潮の満ち引きから始まり、青プレが流行り、落水荘ってコンペも復活し、建築界としても水に関心が出てきた。十数年前のコンペでもぽつぽつ見受けられるが、今や、キルコス2012の応募作を見て、もう終わりが近づいてきているなと。安易な水案が増えてきたことからも分かるように、時期に水系の案は、ポコポコ系みたいに下手な存在として廃れていくだろう。もう水は、ガチで環境をやらない限り意味はない。

建築家像_その1 (その2もありそうなので)

どんだけクライアントの要求を満たしていて、面白いアクティビティがつくれて、メチャクチャ機能的であっても、建築単体としての強さがないといけないという気持ちはある。だから、形が先行して建築を考えることを肯定する。
一方で、人と建築が近い距離で空間を考え、空間から振舞いのデザインだとか使う人の気持ちやコミュニケーションのデザイン、マテリアリティ、地域の素材だったり、生えている木だったり、その場所のもっている文脈とかクライアントのニーズを細かく拾いあげながら、使う人のことを徹底的に考えて形にしていく。というある建築家の考え方にもすごく共感する。
自分の真面目さ、東北大で建築を学んできた故に身に付いてきたリサーチ精神、研究室の広域リサーチトレーニングによって培われたリサーチ力を活かしたい。設計1つ1つをこなしていく上で、その場所場所について広域的にリサーチして、こなす仕事が多くなるに従っていろんな地域についてどんどん詳しく知れるようになってくる。それって生きてて面白いことだなって思う。
後者を踏まえて、前者を可能にすることができたら文句はない。


それを、何となくできる気がすると思える自分独自の考え方
昔は、世界をかえるようなアイデアを思いついてやるとか思ってたけど、いきなりそれは無謀で、もっと小さなことからそれに繋げることは可能だと思っている。
「ほんの少しでも面白いと思える建築がつくれれば良い。」
イデアを出すときその考えが精神的余裕になるし、今までここ1,2年はそうやってアイデアを出してきたし、それがそれなりに評価されてきた。自分にとってそのちっちゃなことが案のコンセプトになり、案の本筋となる。そのほんの少しのちょっとしたことを大きく共感してもらえたらいいな。

妄想

3年生の外部講師を招いた設計課題のエスキスを経て。
話の上手い人だなと。自分はこういう人にはなれないなと。
如何に自分の考えていること、作ろうとしていることを簡単に相手に説明することはとても大事。それっぽく聞かせる技術も必要。どちらも同意。

エスキスの最中にこんなことを思った。
もし自分がスタジオマスターになったらどんな課題をするのか?
自分の考えの根底にあるものでないと、全く上手く行かない。自分の考えの根底に今あるものとしたら、アイデアを出すことに必死になること。アイデアは絶対にいると思っている。アイデアは絶対に出る。アイデアが必要ないこともあるかもしれないが、もしアイデアがあったらそれは必ず武器になる。そして、どんな小さな武器でもそれを如何によく見せることが大事なんだと。
イデアがあれば、簡単にその提案の印象を相手につけることができるし、何より分かりやすい。
複雑なことを考えることができて、容易く理解できる人もいるだろうが、いない人の方が沢山いる。大学の教授とかなら、ちょっと抽象的なこととか、論理が崩壊していることだって重点は理解できるし、膨大なリサーチでも理解してくれる。それはその分野の先生だから。

分かりやすい建築、子供にも理解できる建築をつくっていきたい。自分はどういう人柄の建築家になるんだろうか。またいつか考えてみることにする。

アイデアには3種類あると思う

•より実践的で、すぐにでも今の社会に適合し得るすばらしいアイデア
•少し人間の価値観とか、法律とかが変わったりしたら、実現しそうなアイデア
•大幅に変わっていかないと現実にはならなそうだけど、言われてみれば確かに面白そうだし、成り立ちそうな気がするアイデア
イデアコンペなら3種類とも通るだろうが、実施の世界になると2つ目は難しく、ましてや3つ目なんてなかなか現実にならない。でも自分は3つ目のアイデアを出してしまう傾向にある。

もちろんリアルなアイデアが思いつくことだってあるだろう。でもリアルからかけ離れたアイデアを思いついたとき、それを切り捨てて、他の案を出すべきなのかはまだ分からない。最初に出たアイデア以上のものはなかなか出ない。それを乗り超えるべきだと言う考えもあるだろう。掛け離れたアイデアの精神を如何にリアルに表現するかは自分の力量次第でもある。
きっと状況に合わせてその時々考えるんだな。